川合玉堂芸術院第一部長を辞退
1950年06月芸術院第一部会において第一部長に推薦された川合玉堂は都合で辞退、当分高橋院長が兼任することになつた。
芸術院第一部会において第一部長に推薦された川合玉堂は都合で辞退、当分高橋院長が兼任することになつた。
第六回日展規則書および審査員が五日日展運営会理事会で決められた。
昭和一六年来のフランス政府給附留学生が九日決定、美術関係では美術研究所員秋山光和(美術史学)が選ばれた。
芸術院第二部長は久保田万太郎、第三部長は信時潔に決定した。
戦後最初の建築学会学術賞と技芸賞の受賞者が決定し、学術賞は「利休の茶室」の研究によつて堀口捨巳に、技芸賞は「慶応義塾大学四号ホール」と「藤村記念堂」の建築によつて谷口吉郎に授与された。(工学技術的なものは省略。)
石井鶴三は一日日本芸術院会員に任命された。
天皇陛下は恩賜賞、芸術院賞の受賞者八氏をお招きになり三一日午餐を共にされた。
初の恩賜賞授賞者小場恒吉他七名に対する二四年度芸術院授賞式は二九日天皇陛下の臨幸の下に国立博物館において挙行された。
三〇日の日本芸術院総会第二日は文部省機構改革以来空白となつていた芸術院会則草案を審議内定した。
毎日主催の第四回美術団体連合展が一四日より開かれた。両陛下が一五日にはおそろいで御覧になつた。
芸術院会員、日本美人院同人中村岳陵は同院に対し二九日辞表を提出した。
駐日ベルギー代表シユヴアレリ夫人を中心に連合国夫人達により発足した美術展サロン・ド・プランタン第二回展が六日開かれた。
法隆寺再建に一時期を劃する壁画抜取作業は東大浜田、桜井両博士立会いの下に一二日四号小壁から着手された。
美術史学会機関誌として「美術史」が便利堂から創刊された。
日系米人前衛彫刻家として有名なイサム・ノグチは二日空路訪日、一九年ぶりに日本の土を踏んだ。二ケ月の滞在中講演や我国美術家との交歓などをする。
アメリカの子供が描いた絵四〇〇点が日赤を通じて日本の子供たちに送られて来たので日赤と都教育庁では全国から子供の作品千点を募集、日米交換子供美術展を二八日より都美術館で開催した。
二四年二月法隆寺火災に関する参議院文部委員会の議に発した文化財保護法は大小六〇数回の会議を経、第七国会において可決成立し、八月二九日から実施されることになつた。
二四年度アトリエ新人賞は一水会小野末と決定した。
装幀相談所主催による一九四九年度出版物の装幀美術展が一二日より三越本店で開催され受賞が決定した。